漠然と、子どもたちを対象とした教育をやりたい。 ビジネスの話ではない。
この動機のタネのようなものはたぶん 10 年くらい前、自分が子どもをもつ前からうっすらあったように思うが、この記事を書くまでに強まったのはつい最近。 マイナスの出来事があったから: 今年から公立小学校に通い始めた息子に支給された教科書を見て、率直にだめだこりゃと思った(別の機会に詳しく書くかも)。 かといって、これは私立校に通わせれば解決するような問題ではない1。
で、教える、といっても果たして何をやるのか?。
ネタはいろいろ考えてみた──「科学的思考法」「文章の書き方」「海洋生態学」──どれもダメ。 なんというか、どれも私の頭の中にあるものでしかない。 つまり私がボトルネックになるということ。 思考法とか文章の書き方はある程度「魚の釣り方」的な要素はあるが、それでもやはりダメだ。 悪い意味で先生っぽい内容になりそうというか、ティーチング的な感じになってしまうだろうと思った。 私は「教育」はやりたいが「教える」のはしたくない。
いろいろと考え、また学部時代の先輩に相談したりなどしてみた結果、漢文素読がいいのではないかと思った。 この題材ならば、教育が教育者の器に制限されることはない。 で、さっそく『素読のすすめ』を買って読んでいるところ。 偶然にも、著者の安達忠夫先生が同郷なことにも気づいた。
今ちょっと気になっているのは、漢文の発音。 これは私の悪い癖なのかもしれないが…「チョウジ ハクテイ サイウンカン(朝辭白帝彩雲間)」とやれば、要は「サンキューベリーマッチ」みたいな状況になっているわけなので、どうしても気になってしまうのだ。 もっとも、江戸時代に素読を学んでいた知識層も日本の音読みでやっていたのだろうから、効果の程は申し分ないのだろうし、そもそも何のためにやるのかを考えれば、正しい中国語の発音を強いることによって、主役の子どもたちが戸惑うことのデメリットのほうが大きいかもしれない。 それどころか、音読み素読していれば覚えられたであろう日本の漢字の音読みの学習機会を逃すことになるのだろうか。
それでも、もし私が素読をやるとしたら、やはり発音を蔑ろにするわけにはいかない。 これは性分みたいなものだと思う。 ヘタでもいいのだ。 しかし初めからやりもしないというのは選択肢に無い。
ということで、ひとまずうちの子どもたちで試してみようかと思う。 すまんな。
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そもそも私立に通わせることで失うものもあると思っているし ↩︎