これまでの人生を振り返ると、私にはその時々にちょうどハマっている「マイブーム」みたいなものがあり、2025 年のマイブームは明らかに「ライブ」だ(まだ 2025 年始まったばかりだけど)。
たぶん世の中の人はライブの素晴らしさなんか自ずとわかるんだろうけど、恥ずかしながら私はもともと、ライブなんて観て何が楽しいのかさっぱりわからないタチだった。 CD のほうが演奏のクオリティ高いじゃん、くらいの貧しい考え方だったように思う。 遅ればせながら 2025 年の私は、表現者の脳から直接放出されているものを見ると感動を覚えるようになった。 友人に最近教えてもらった Kirk Franklin の Tiny Desk ライブなんかはほんとに最高だ。
この本はまさに、表現者の脳からなにかが放出されるプロセスについて述べた本だ。
本書を手に取った理由 🔗
この本はたしかタイトルだけ見て買ったような気がしている。
読もうと思った理由を改めて でっちあげ 言語化すると下記の 3 つになる:
- AI が現実世界に及ぼす副作用がどれだけ大きくなっても、身体は人間に残る重要な要素の一つだから
- 体感覚に対してもともと興味があったから
- 他人の行動に対して、身体知の違いが由来と思われる違和感を覚えることがあるから
身体はこの先も人間に残る重要な要素の一つ 🔗
AI がわれわれの生活や労働の中に溶け込んでいくことは確実で、今さらここで書く必要はない。 私は「AI ができることは人間がやる必要はなくなる」という考えは短絡的すぎると思うけれど、それでもわれわれ人間特有の要素が何であるかを考えることはたぶん有意義なのではないかと思う。 本書が全体を通じて着目しているのは「体感覚」で、つまり主観だけでなく身体も必要とする概念だ。 シンギュラリティ以後の世界においても意味を持ち続けるであろう体感覚について、まとまった時間をとって考えてみたかった。
体感覚についてもともと興味があった 🔗
私は Web エンジニアなので仕事で身体を使うことはほぼないが、体感覚に対する興味は昔から強いタイプだったように思う。 体感覚に関しての個人的な思い出はいくつもあるが、本書のテーマに関係するものには、ギターの練習で経験した「体感覚の気づきによる非連続的な上達」がある。 楽器の上達は、継続的な練習によって身体能力が高まるに伴ってジワジワと起こるものと思っていたが、実際にはそうではなく、よい演奏に必要な特定の体感覚を見つけられれば瞬間的にさえも起こり得るものだった。 この経験以後、私は体感覚に対してさらに強い興味を持つようになり、また自分にとって正しい体感覚をできるだけ多く見つけたいと思うようになった。
身体知の違いと思われる違和感 🔗
ふだんの生活の中で、他人の行動に違和感を覚えることがよくある。 中でも日曜大工は違和感のオンパレードだ:
- 仮組みをネジ止めする状況において、空いた方の手で材料を保持する様子
- ハンマーを持つときの長さや叩く場所、叩き方
- 専用工具がない状況における代替工具の選定
…キリがないのでこのへんにするが、他にももっとあると思う。
日曜大工ほど高度(?)でなくとも、重量物を使って何かを叩く動作には、その人の身体知が如実に表れるように思う。 本来、対象に応じて手ごろな石を選ぶ能力は猿でも持っている身体知であり(猿を馬鹿にする意図ではなく、はるか昔から知っていたはずという意味)、私にとっては学校の成績がどうだとか、何の仕事をしているか以前にヒトとしてできてほしいことの一つだ。 それができない場合に具体的にどんなデメリットがあるのかと問われても特に気の利いた説明はできないのだが、例えば自分の子供がこういった身体知に欠けた大人になることを想像すると、理屈以前にゾッとしてしまう。
本書のエッセンス: 体感覚の鍛錬と発露 🔗
本書が全体を通じて重視しているのが、身体に任せた「発露」という質のアウトプットだ。 これは、知識の階段を登っていくだけではたどり着けないような、質的に異なる成果を生み出す。 本書のエッセンスは「現場の状況に応じた最高のパフォーマンスをするにはどうするか」かなと思う(意訳):
- 練習段階では: 戦略思考やメタ認知など、使えるものをすべて総動員して身体感覚の構築に努めよ
- 本番では: リラックスして身体の発露に任せよ
本書が使っている「発露」とは、恐らくだが、意識という「お荷物」から脳が開放されて、最高のパフォーマンスを出せる状態でのアウトプットだと思う。 というのも、われわれ人間は常日頃、様々な決定を自らの意思で下しているように感じているが、実際には、脳活動は意識的な意思決定よりも前に始まることがわかっている。 乱暴にいえば、意識というものはいわばわれわれに対する脳からのおもてなしのようなもので、これのおかげでわれわれは「ものごとを自分でコントロールしている感」を得られていると言えるかもしれない。 そんな「おもてなし」の雑用から開放してやることで、脳はわれわれの意識が考えうる延長線上から良い意味で外れた、優れたパフォーマンスを発揮できるのではないか。
無意識下における驚異的なパフォーマンスの例として、下記のようなものが知られている:
- 運転中のとっさのブレーキング(子どもの飛び出しを認識するよりも前に、脚はブレーキを踏み始める)
- 生死を賭けた真剣勝負の極意(リラックスできた方が勝つ)
- 芸術家やスポーツ選手のパフォーマンス(たくさんある!)
特に芸術家などに見られるこの状態は「無我」と表現されていることもある。
感じたこと 🔗
システム開発にも身体知が存在するのでは? 🔗
なんとなくだが、ふだん仕事でやっているシステム開発にも身体知のようなものがある気がした。 もちろんシステムの中に実際に入れるわけではないのだが、 少なくとも私は、インターネットに晒されている領域に対するリスクをはらんだ落ち着かない感覚や、 イベント駆動によってファンアウトする部分のスケール感覚などを感じる。
身体知とは: 各自の脳に備わる「物理法則」のようなものでは? 🔗
リンゴが重力に引っ張られて落ちるとき、落下速度は物理法則によって決まっている。 リンゴの形や現場の気圧、風の影響によって落下速度が微妙に変わるとしても、それも物理法則によって決まっている; ゲームの中のリンゴのように、計算によって求まっているのではない。
身体知にもとづく判断も、これと似た速さがある。 論理ステップによって導かれているのではなく、あらかじめ決まっているかのような速さがある。 「判断」という表現はあまり適当ではなく、「自ずとわかる」のほうが合っている。 この速さは、身体知や体感覚に基づいて違和感が生まれるときによくわかる。
この違和感は瞬時に生じるものだが、その出所を尋ねられてしまうと、こちらとしては不本意ながら「解説」しないといけなくなる。 すると尋ねたた方にとっては「理屈っぽくて、なんだかめんどくさい人だね」となるわけだ。 …違うんだ!! ルールベースな感覚ではないし、知識に基づいたものでもない。 もはや判断でさえない、「わかる」という感じだ。 誰だってそうだろう?
体感覚の違いと思われる違和感 🔗
これは体感覚の違いから生まれたものだろうなぁという、選りすぐりの(?)違和感を集めてみた。
原理の説明の誤り 🔗
新生児の頭蓋骨には隙間があり、押すと柔らかい部分がある(押してはダメ)。 この部分は心拍に合わせて脈動するのが見えるのだが、これを「呼吸に合わせて動く」と説明している人を見たことがある。 私にとっては、頭頂部周辺はどう頑張っても呼吸と結びつくような場所ではないので、この説明を聞いた瞬間、頭で考えるまでもなく違和感を覚えた。 なんでもないエピソードだが、本書を読んだいま思い返すと、知識ではなく体感覚由来の違和感だったなぁと思う。
家族に対する呼称 🔗
「ワシモ」という子供向けアニメがある。 この作品を知ったきっかけは子供と妻が話題にしていたからで、「亡くなったおばあちゃんがロボットとして生まれ変わって…」というあらすじを聞き、「なるほど、そんな家族の形もいいかもね」と、はじめは微笑ましく思った。
ところが実際の作品をを観てみると、違和感を通り越して強烈な嫌悪感を覚えた。 ロボットの姿をしていようと、元々はおばあちゃんだったのだからてっきり「おばあちゃん」と呼ばれているものかと思ったのだが、こともあろうに、登場人物たちはロボットを「ワシモ」呼ばわりしていた。
この名前がホンダ社の “ASIMO” のオマージュであることはもちろん私も理解しているが、その遊び心はタイトルだけで十分に役割を果たしたのではないかと思う。 もっとも、祖母とどのように過ごしたか(または過ごしていないか)は人によって異なるので何が正解というつもりはないが、私にとっては祖母という存在との心理的距離を思えば、何をどう間違っても祖母を「ワシモ」と呼びつけることはあり得ない。 アニメになっているくらいなのだから、おそらく複数人の目で OK が出た作品なのだろうと思うが、それが逆に私にとっては恐ろしい。 少なくとも、祖母に関する身体感覚が私とは根本的に違う人々が作っているのだろう。 この作品は私にとって、体感覚レベルの嫌悪感というものを初めて感じさせてくれた特別な存在となった。
箸置きの向き 🔗
向きのある箸置きをいくつか持っている。 私なりに、それぞれに「気持ちいい向き」が決まっており、これと逆に使うのがとても気持ち悪い。
この小鳥の箸置きは、顔を手前に向けて使うのがしっくりくる。

小鳥の箸置き。私なりに気持ちよい向き
これを逆に置くとなんとも居心地が悪い。

私にとって「逆向き」に置かれた小鳥の箸置き。すぐにでも直したくなってしまう
もう一つはこの檸檬の箸置き(このテイストなら「レモン」じゃなくて「檸檬」だよね?)。 対して代わり映えしないような箸置きネタでもう一例引っ張っているのは、上で小鳥の箸置きに対してしたばかりの説明が、こちらでは成り立たなくなってしまうのがなかなか興味深いからだ。

この箸置きを使いやすいと思う向きに置いた様子

左手で持ちやすそうな部分を手前に向けると、この箸置きの場合には逆に居心地が悪い
どちらの置き方がしっくりくるかは体感覚の問題なので、私とは逆の好みの人もいるかもしれないが、一応は作り手の意図としての「正解」はあるのではないかと思う。 いずれにせよ、シンプルだがなかなかおもしろい題材だ。
体験の言語化を大事にしたいと思った 🔗
著者は体感をメタ認知するために、言葉によって表現することを推奨している。 私も著者と同じ考え方で、特に大人は、体感覚をモノにしていく幼少期と比べて低下しているだろうから、積極的に使っていかないとと思っている。
私は 10 年ほど前、毎日かなりの時間をギターの練習に費やしていた時期があり、体感覚の言語化は自然とやっていた。 ピックを通して弦を感じたときの感覚や、自分の腕の重さについての感覚などを練習ノートに記していた。 当時の練習ノートを読み返すことはもうないが、あの時から感じられるようになった感覚は、今ではギターを弾くときの「ふつう」の感覚として身体に染み付いている。
著者も認めるように、言語化による情報の欠落は確かにある。 しかし言語化それ自体がモデル化のプロセスであり、その制約を理解していれば問題ない。 他者に伝える際は身体のそもそものプロポーションや筋肉のつき方、それまで培ってきた体感覚などの前提が異なるため、言語化の限界が顕著になるのはそれはそう。 やはり人間はコンテキストの塊だなと思う。
そういえばこの体感覚の言語化という営みは、まさに人間ならではのものだ。 身体と主観を必要とする体感覚は AI に対する動物特有のものであり、言葉を必要とする言語化は動物の中でも人間特有の能力だ。 私は普段から、人間として生まれたからには人間に特有のものを楽しんで生きたいと思っていて、この身体感覚の言語化は格好の楽しみになりそうだ。
「発露」型のアウトプットは成熟度の高い組織と似ているのでは 🔗
妻と話していて、「業務スーパー」や「Costco」の店員さんって感じいいよね、という話題になったことがある。 なんというか、店員さん各自が自分で考えて動いている感じがして、私たち夫婦は彼らの働きぶりがとても好きだ。 本書の文脈で言い換えると、客に問い合わせを受けた時、その場の状況に身を完全に浸して、店員というよりは一人の人間としてごく自然な支援をしてくれる感じがするのだ。 これってまさに身体知と発露ではないのか。 これに思い至ったとき、発露型のアウトプットは、『ティール組織』で紹介されているような成熟度の高い組織と似たところがあるのではないかと思った。
本書で紹介されているアウトプットのパターンを成熟度別に類型化すると下記のようになる:
- ルールベース型
- パターン認識型
- 発露型
上記の類型を『ティール組織』で紹介されている組織類型に対応づけると、下記のようになるのではないか:
- ルールベース: アンバー型
- パターン認識型: オレンジ型
- 発露型: ティール型
ティール組織のデメリットでは意思決定の遅さと言われていたような気がするが、逆に言えば一人の人間が発露アウトプットするぶんには、もしかしてメリットしかないのではと思う。 これについてちゃんと書くには『ティール組織』を読み直さないといけないので別の機会にしよう。
その他 🔗
わからなかったこと 🔗
そもそも「身体」の話は必須なんだっけ? 🔗
本書でいう「身体知」が一般に言う「メンタルモデル」とどう違うかわからなくなってしまった感じがちょっとある。 もっとも、身体を動かすのは脳なので、両者は根底ではつながっているとは思うのだが。
本書の中で、体感が深く関わるパフォーマンスとして、下記の例が紹介されている。これらは身体との関係がよくわかった:
- デザイナー
- 建築家
- お笑い芸人
一方で、お笑い番組の収録スタジオにおける「Pepper くん」のズレたコミュニケーションの例も紹介されていたが、この例については、文脈をちゃんと理解できていないかもしれない。 確かに把握すべきコンテキストは多いが、実は身体性は無関係な例だったのではないか?という感じがする。
そのほか、下記のエピソードについても身体との関係が見えなかったもの:
- 棋士の指し手選び
- 試合展開を仔細に記憶している野球選手
ちょうど手元に『知識は身体からできている』という本があり、それをパラパラめくってみると Barsalou という研究者は「身体化された認知」よりも「基盤化された認知」という用語を推薦しているらしい。 身体知とメンタルモデルの境目がわからなくなっていたところでこれを見つけ、「基盤化された認知」という表現に置き換えてみると棋士の指し手や野球選手の記憶のエピソードの文脈もなんとなく理解できる気がした。
納得いかないこと 🔗
「七転び八起き」を数的に整合させる必要はない 🔗
これは完全に本書の主旨からは外れるが、強烈な違和感を覚えたので書いておく。 本書で引用されていた、お笑い芸人による主張「八回起き上がるためには七回でなく八回転ぶ必要がある」というもの。 そうじゃない、八回転んで八回起きるのは当たり前の話だ。 むしろこの諺のポイントは、転んだ回数よりも起き上がった回数の方が多いところ。 ここが不屈の精神を表している。
当のお笑い芸人の主張がどういう文脈でなされたのかわからないが、レトリックは正確であればいいというものではないのだ。
関連書籍 🔗
本書を読む過程で思い出した書籍を書いておく。