漢文素読をしながら福沢諭吉を読む
わが家では漢文素読をやっていこうと決めた今、あえて『福翁自伝』を読んでいる。
福沢は漢学と儒教を否定し、数理学と英学の重要性を主張した。 確かに福沢なしには、植民地化を免れた今日の豊かな日本はあり得なかっただろう。 しかしその主張は、二百余年ぶりに戸口を開いた当時の時代背景──手当たり次第に弱国を飲み込まんとする列強諸国の勢いの中、国家の尊厳を保つ必要がある──を考慮に入れる必要がある。 漢学を不要とする福沢の主張を、こんにちの我々が額面通りに受け取ってはならないと思う。 彼が漢学を否定できたのは、彼がそれを十分に修めていたからだ。 さすがの福沢諭吉も、未来の日本人がこれほどまでに国語力を失うとは想像しなかったろう。
『福翁自伝』は本人が語る型式で書かれており、全体を通して彼の人柄が伝わってくるようだった。 いわゆる名誉のようなものをなんとも思わず、幕府からの用命を撥ねつけるなど、己の実力に確固たる自信がないとできないだろうと感心してしまったが、一方で、何かにつけ飄々と逆張りするところは個人的にどうしても好きになれなかった。 また授業料という金銭を教育の場に持ち込んだことも、私としては残念極まりない。 もっとも、私腹を肥やすような意図ではもちろんなかったし、当時の慶應義塾の師範たちの人間性は素晴らしかったので、授業料制度がリアルタイムに実害を生むようなことはなかったと思われる。 しかし今日、教育という営みから神聖性がほとんど失われていることを考えると、なかなか思うところがある。
福沢が重視した、実利の観点に立った教育は、あくまでも教育の一側面に過ぎない。 そのような教育は、現代に生きていれば成長の過程で必ず忍び寄ってくるもの、あるいは現実社会を生きていく上での落とし所・妥協なのであって、せっかく「世間」の影響の小さい幼少期に、親がわざわざ授けるようなものではないと考える。 ソフトウェアアーキテクチャでいう「コアドメイン」と「インフラレイヤー」の関係のように、核の部分が外界の都合でブレることがあってはならないのである。
ということで、今日は素読始めだった。
子曰 有教無類
子曰く 教え有りて類なし—衞靈公 第十五-39