山田秀秋さん講演会を終えて
こちらのお知らせで紹介した、山田秀秋さんの講演会を無事開催できた。 当日のアーカイブ動画は、主催の二宮 “環境づくりフォーラム” から後日公開されると思う。
たまたま町内で複数イベントが同時開催されていた日だったが、町長ふくめおよそ15名くらいの方が参加して下さった。 2時間という時間は、現代を生きる私たちの生き方を考え直そうとする講演会の枠としては明らかに短すぎたが、それでも山田さんが言おうとされている話の概要はなんとなく伝わった感触があった。
当日は、本テーマについてここ1年ほど山田さんと議論し合っていた者として、私がファシリテータを務めた。 会場の様子を見ながら、必要に応じて呼び水的な質問をするつもりでいたのだが、幸い会場の方々が関心を持ってくださったおかげでほとんど出番はなかった。 発表を終えた山田さんも、講演のポイントである “ありのまま” という考え方にちゃんと関心を持ってもらえたことを喜んでいた。 というのも、過去に他の場所で講演された際の参加者層は、もともと関心のあったトピックに関する知識を得ることを目的として集まった雰囲気があり、質疑では “クマ被害対策 “ などのような、講演の本質から外れた(というか対極にある?)話題が出がちだったという。
今回は初回だったこともあり、テーマ全体をざっと話されるに留まったが、参加者の方々の「もう少し深く聞きたい箇所があった」「そうは言ってもどうすれば?」などの好意的な反応を見て、いくらかの手応えを感じられたようだった。 本講演に向けてもろもろをご準備くださった一石さんとも、続編として個別のトピックについて掘り下げる機会を設ける計画について立ち話をして、お開きとした。
本稿では当日のふりかえりとして、山田さんの講演の概要と、講演に対する私なりの感想などを記録しておく。
講演の概要
山田さんのメッセージを要約すると、だいたい次のようになるかと思う:
- 止まることのない自然環境破壊は、物質主義が蔓延した現代社会で “ありのまま” を忘れた大人たちの生き方によって起こっている
- 必要なこと: 自分が “ありのまま” でないことを大人たちが認めること
- 子ども達は生まれながらに “ありのまま” であり、何らは問題ない
- 必要なこと: “ありのまま” を忘れた親たちの毒が子どもを直撃しないよう緩衝する助け合い社会を取り戻す
上のメッセージがどこかで聞いたようなフレーズとして頭を通り抜けてしまうようなら、太字の部分を “わたし” に置き換えるといいかもしれない。
講演は大きく二部構成で、前半では、現在の地球が直面している深刻な状況について、沿岸生態系を長年研究してこられた山田さんならではの視点から、ご自身の研究成果も交えた解説がなされた。 後半では、そうした状況を打開する鍵として、山田さんが提唱する “ありのまま “ という考え方が紹介された。
山田さん講演に対する感想・考察・補足など
講演の中で、私の意識にとまった点について、感想などを書いておく。 ほぼ覚え書きで、網羅性はない。
また、当日の限られた時間のなかでわずかに触れられただけのトピックについて、ふだんから山田さんと話している者として補足できることがあれば書いてみる。 いずれも私の言葉で表現したものなので、山田さんの意図を正確に反映できていない可能性はある。
現代社会と物質主義
現代社会は、物質主義がいたるところに蔓延している。 この言葉の意味は、日々をなんとなく送っている人には理解されることがないのだろうと思うが、一人でも多くの人がこの言葉の意味を理解できるよう、何度でも言う必要がある。 これについては別の機会にきちんと書こうと思うが、ここではどのようなものが物質主義的なものなのか、そのごく一部を列挙してみる:
- 工業製品: 特徴は「安い」こと。自動車などのように高額なものも含まれるが、いずれも工業的に作ることによって、他の方法で作るよりも圧倒的に安く手に入るようになっている。安い理由は、地球から搾取しているからである。現代では、意識的に手作りのものを選ばない限り、工業的に作られていないものを探すことのほうが難しい
- 死や老いを遠ざけようとするもの: これらは生命の自然な営みである死や老いを、人間としての能力や価値を下げるものとみなしている。その「価値」尺度自体が物質主義的な価値観から生まれているのだから、そう思えるのはある意味当然といえる
- 他者の評価によって価値が変化する所有物: 流行の商品や、特定のメーカーが製造したことが意味をもつ商品など。物そのものは何も変わっていないにもかかわらず、他者の評価が変わるだけで「価値」が上がったり下がったりする
- 時間あたりの仕事量を上げる商品: ある箇所を増強すると、こんどは別の場所を増強したくなる。どんどん効率を追求するようになり、自分が思う「普通の速度」に満たない人やモノを許せなくなる
科学技術と物質主義
講演の中に “科学技術は物質主義の相棒みたいなもの” というフレーズが出てきた。 これは本当にその通りで、聞いていて思わず笑ってしまった。 ここでは念のため、“科学” と “科学技術” の違いについて補足しておこうと思う。
科学そのものは、物質主義とはまったく無関係の概念で、真偽は扱うが利害は扱わない。 未知を解明するという点では問題解決の営みだが、ここで言う「問題」とは不都合が生じているという意味の問題(problem)ではなく、客観的な未知: 命題や問い(question)という意味である。 従ってその成果物は “解”(answer)や “証明”(proof)である。
一方で、科学技術──科学によって得た科学的知見を現実世界の課題を解くことに応用する──は、人間にとって生じている不都合(problem)を解決するためにある。 従ってその成果物は “解決法”(solution)である。 物質主義的な価値観にとって、科学技術は欲望を具現化するためにこの上なく都合のよい手段だ。
科学技術のおかげでより早く、より安く、より多くのものを手に入れることに慣れた私たちは、とにかく我慢できない生き物になっている。
殺虫剤が及ぼす影響
私が農学部の昆虫学で学んだ知識では、殺虫剤の基本的な考え方は、昆虫に特有の生命維持のしくみを狙うことで、昆虫には効くが人間には効かない毒を開発することである1。
白状すると、学生のころ、私はかなり科学的な知識に「かぶれ」ていたように思う。 20年以上経った今でも特に楽しかった学科として記憶に残っているのは分子細胞生物学と有機化学で、入学後に立て続けにこれらを学ぶことによって、私は「自然界のしくみ」という世界観にすっかり染まった。 昆虫学の授業で選択毒性という考え方を知ったときも、よく考えたものだという感心を覚えこそすれ、「害虫を駆除」という発想自体の如何については意識に上りもしなかった。 要は教養がなかったのである。
「駆除」という考えをいったんは受け入れるとして、さて選択毒性は本当に人間にとって安全なのだろうか。 科学は宿命的に、ものごとを何らかの側面で切った断面についてしか扱えない。 上の殺虫剤の例でいえば、昆虫と人間との間に毒性の差を生む仕組みについては、着眼した(検討してみようと認識に上った)観点についてしか検討できないのだ。 調べていない経路や部位に影響を及ぼすことはあるかもしれない。 何かが “ない” ことの証明はそもそも無理なのだから。
さて “残留殺虫剤の人体影響” という観点で話すと、どうしても合理性という土俵での話に終始してしまうが、この話題について触れた山田さんは、そういった低レベルな次元を意図していたわけではない。 要は、自分にとって都合の悪い生き物だけを「駆除」し、収量を増やそうとする発想自体を問うている。 そもそも、頭を悩ますほどたくさんの害虫が発生するのは、もしかすると特定作物の収量だけを追い求めるあまり、作物の組成や密度など、構造レベルで問題を抱えた農地になっているのかもしれない。
“人間も自然の一員”
この言葉は、現代社会では “人間は人工物はでない” くらいの意味しか持たなくなっている。 しかし化石燃料を使っていなかったころの人類は、文字通り太陽を起点とした生態系の中で生きていた。 そういったサイクルの中の暮らしでは、ものを燃やしても炭素収支はゼロである。 化石燃料を使うということは、このような、うまく回っていた系の外から余剰のエネルギーを持ち込んで平衡状態を破壊することにほかならない。
いまこの時代に生物の体を構成している炭素が、長い年月をかけて化石燃料となることも科学的にはあり得るが、それには人間の認知スケールからすると永遠とも思われる時間がかかる。 やはり化石燃料は、私達の生態系の構成要素として考えないほうがよいだろう。
山田さんの気づきのきっかけ
本講演のテーマは、山田さんが人生の辛い時期を乗り越える過程で得た気づきが元になっている。 山田さん自身も、このようなパターンはご自分だけでなく、人生が行き詰まるような困難に直面することで、自らの価値観や生き方を根本から点検し、ブレイクスルーを得た例は多いだろうと仰っていた。 しかし、地球上の人々にそのような「困難からの気づき」が起きるのを待っていたのでは手遅れになると感じ、このような発信活動を始めることを決意されたそうだ。
私は、研究者として山田さんと同僚だった当時、山田さんの困難をまさに目撃していた。 私たちは毎日の昼休みに、研究所のサッカー同好会で汗を流していたのだが、もともとアグレッシブなサッカーをする山田さんが、ある時から急に膝を傷め、サッカーはおろか歩くこともままならなくなってしまった。 私も他のメンバーも、どう見ても身体的な故障だろうと思っていたし、山田さんご自身もそう信じ込んでいたので、整骨院や整形外科など、考えうるだけの診療・治療を試していた。 結局、私は山田さんの回復を見届けることなく転勤となってしまったが、その後も苦難は続き、山田さんの探求は精神的なもの──ヨガ、瞑想や、いわゆる「スピリチュアル系」セミナーも含め──にまで及んだようだ。 最終的に、身体的な不調を一気に解決したのは “自分自身がエゴに取り憑かれていた” という気づきを得たことだったそうだ。 山田さんが歩けなくなった時期を知っている私としては、認知上の問題によってあのような身体的症状がほんとうに起きうるのかと、心底驚いたのを覚えている。
“ハートモード”
“ありのまま” をとりもどし、助け合い精神に基づく行動をとれる状態。 私はこれを、岡潔がいうところの “情緒” に対応しているのではないかと思う。
先の殺虫剤の例で見たように、科学的・合理的な思考は、与えられた目的を達成するための手段を見いだすことには優れている。 しかし、そもそも何を目的とするべきか、何を善しとするかという判断を、それだけで下すことはできない。
講演のなかで、山田さんが「物質主義が身に染みている西洋人(とりわけアメリカ人)が、“ありのまま” に戻ることは容易ではない」と言う場面が何度かあったが、これは差別心や悪意から出た言葉ではなく、事実としてそう、という意味だったのだと思う。 私もなんとなくわかるような気がする。 西洋人の場合には宗教によって補える部分もあるのだとは思うが、それでも日本的な情緒の範囲すべてをカバーするのは、実際に無理だと思う。
情緒について考えるときに私が思い出すのが、小林秀雄の『お月見』という随筆だ。 ストーリーは、たまたま十五夜の嵯峨で宴会をしていた日本人の会社員たちが、山の端に上った見事な月に気づき、いつのまにか月見の宴になるというもの。 要は文化的な感受性は変えようがないということで、話の先には、この宴会の場に居合わせた外国人も登場する。 月を何度も見やりながら話す日本人たちを見て、その外国人が「今日の月はどこかおかしいのか」と質問するところに滑稽さがあるのだが、私にはこの外国人がエイリアンのようなものに映った。 社会が国際化していくとはどういうことなのか──姿かたちが自分と似てはいるが、山の端に浮かぶ月の情緒を理解しない生物とうまくやっていく必要がある、ということだと、一種の衝撃を受けたのを覚えている。
もっとも、だれもが “ありのまま” の境地に到達した世界では、国際交流の必要性などそもそもないような気もする。
“エゴモード”
エゴとは、過去に経験した恐れなどに基づく思考の癖。 エゴに支配された状態といわれて、心当たりが大アリなのは私だけではないだろう。 これを解決する方法としての瞑想は、講演中ではわずかにしか触れられていなかったが、この場で改めてその重要性について述べておく。
ちょうど1年ほど前、山田さんは、私にヴィパッサナー瞑想という種類の瞑想をやるといいと教えてくれた。 瞑想といっても何種類かあるらしく、私は山田さんに紹介してもらったヴィパッサナー瞑想しか知らないのだが、この手法は “気づきの瞑想” とも言われるように、自らの心の状態に気づき続ける修練が特徴だ。 この “気づく” を言い換えると、浮かんだ自分の感情に対して、それを言い表すラベルを瞬時に貼ることであり、これが、自分の心の状態を客観視する効果を持っている。 この “気づく” という心の技術に慣れると、瞑想中でなくとも日常生活で気づきを発動させることができる。
“エゴモード” の自覚にこのヴィパッサナー瞑想の技術が役立つのは確かだと思うが、山田さんは瞑想というキーワードが独り歩きすることについて、少し警戒心を持っていそうだった。 というのも、過去に山田さんがいわゆるスピリチュアル関連のセミナーを覗いてみた際に、講師のレベルがかなり高かった一方で、“ありのまま” には程遠い受講者たちが、講師の言葉をエゴ全開で都合のいいように解釈し、却って自らのエゴを強めるだけで終わる構図を何度も見たそうだ。 山田さんが「スピリチュアル系の人々」というとき、それは上のように、自らのエゴを正当化するためにスピリチュアルのワークに勤しむ人のことを言っている。 偽物だから「スピリチュアル系」というわけだ。
“エゴモード” とは、状態なので、それを自覚することさえできれば、よい状態に戻れる余地はある。 山田さんはこれまでに、自分が “ありのまま” でないことを認めようとしない大人を多く見てきたと言っていたが、恐らくそれらの人は、山田さんの言葉を人格否定と取ってしまったのだと思う。 山田さんの指摘は本来、「あなたはエゴまみれな人だ。どうしようもない」ではなく、「あなたは今 “エゴモード” にある。気づきさえすれば “ありのまま” に戻れる」というメッセージだったはずだ。
“宗教の衰退”
このキーワードは、近代において日本人が “ありのまま” を失った過程を述べたスライドで登場した。
物質主義的な価値観で生きていると、宗教はなんだか胡散臭いものに見える。 これは私自身が、物質主義的な価値観で生き、科学を修め、ソフトウェアエンジニアとして働いていたのでよくわかる。 キリスト教文化圏では、目に見えやすい宗教が生活の一部になっているが、日本人の場合にはもともとの宗教観が生活との境界が曖昧なものだったこともあり、輪郭のはっきりした宗教としてメッセージを投げられると警戒心を持ってしまうところがあるのではないかと思う。
このテーマを考えるようになって気づいたのだが、いろいろな宗教が発信しているメッセージはどれも、私や山田さんが話していることと全く同じことを言っている。 先日、たまたま視聴した宗教団体のコマーシャルは、私自身が原稿を書いて提供したかと思うほどだった。 私自身、物質主義的な価値観の呪縛から覚めてみて気づいたのだが、宗教が胡散臭く見えるというのは、まだ生き方について本気で考えていないことの表れだ。 そもそも生き方という言葉自体も、「自分探し」流行の時代を経たことによってかなり手垢がついてきている。 「こう生きたい」と本気になって考えたつもりでも、それを考えたときの価値観が物質主義に支配されていればそれは “ありのまま” ではないということだ。
山田さんのメッセージは、考え方によっては宗教の香りがするかもしれないが、これは偶然ではない。 これは山田さんが宗教家だからという意味ではなく、生き方について突き詰めて考えると、行き着くところは結局同じだからだ。 宗教の種類さえ問題ではない。 ただし、山田さんも私も、話している内容は宗教のそれと見分けがつかないかもしれないが、特定宗教に所属することは今後もないと思う。 新しい教団を作りたいからではない。 行き着くところが結局みんな同じであることがわかっていながら、わざわざ新しい宗教を作ったところでなんの意味もないし、どこに所属しようが、結局は各自が自分で気づくしかないからだ。 そもそも団体を組織して名前をつけること自体が、新たな欲を産む行為ともいえる。
私から言えることは、宗教はなにも怪しくなどないということ。 科学者でありながら、宗教を信仰している人がいても、何もおかしくない。 それぞれの宗教が言っていることをこの世の全員が理解できたなら、世界は本当に平和になるだろう。 ちゃんとした宗教は確かに存在する。 ただし、金を気にしている団体は偽物だ。
心豊かな社会への移行
山田さんが示した “心豊かな社会に移行するための指針” を紹介する:
- 物質主義(消費主義・資本主義)が破綻に向かっていることを知る
- 物質主義に依存している心の構造を理解する
- 自分が “ありのまま” ではない(エゴに翻弄されている)ことを認める
- 科学リテラシーを高め、社会や環境の現状を把握する
- ハートが優位になる行動(助け合う、自分の身体を慈しむ、など)を意識的に行う
- ありのままに近づく(適切な行動が自然にできるようになる)
これは叩き台とのことなので、このテーマに共感する方々が議論に加わることで、将来にはいくらか形が変わっていることがあるかもしれない。
ということで、私がこれらを眺めたときに浮かんだコメントを書いておく:
1. 物質主義(消費主義・資本主義)が破綻に向かっていることを知る
まずこれを本当の意味で自分ごととして検討することに、一つ大きな壁があるのではないかと思う。 このテーマは環境保護運動との境界がどうしても曖昧になるので、「既に知っている話」として素通りされてしまう可能性があるのだ。
環境保護活動は、既に中途半端な形で消費され尽くしてしまったと思う: 「ハイブリッドカー」「エコバッグ活動」のように、環境にやさしい生活というものが、日々のちょっとした心がけによって、現在の生活の延長上に獲得されるかのように誤解されている。 そのハイブリッドカーやエコバッグはどのような設備で製造されているのか。 ハイブリッドカーに乗り、エコバッグを持って、どんな店に行き、どんなものを買うのか。 それらはどのように製造されているのか。 自分の家そのものがどのように製造されているのか。
わたしの場合には、自分の生活を形作っているものを一つづつ点検していくと、物質主義と縁がないものとして残ったのは、書道用品と着物だけだった。 半紙は手漉きのものだが、私はそれを通信販売で買ったので、注文はコンピュータによって処理され、化石燃料を燃やしながら、我が家までものの3日足らずで運ばれてきた。
そもそも物質主義について考えるには、それがいかに自分の生活の隅々にまで入り込んでいるかを理解する必要がある。 山田さんも言っていたが、山田さんの講演を聞いて腹落ちした方は、ぜひ身近な人にこの話をしてみてほしい。 意識変容した人一人一人が、毎年一人ずつ他者の意識変容を引き起こせば、33年で世界人口を超えるらしい。
2. 物質主義に依存している心の構造を理解する
物質主義に取り憑かれてしまう原因は、結局のところ自身の欲と恐れを直視していないことにある。 欲はシンプルだが、恐れはちょっと難しい。 自分の感情が広い意味での恐れに由来していることを自覚するのがそもそも難しいからだ。
しかし自分の欲と恐れが見えるようになれば、現代のビジネスのほとんどが、欲や恐れのおかげで成立していることを理解できる。 私の場合には、生命保険と子どもの学習塾が、自分の人生とは無縁なものとして、認識の外へ出ていった。
3. 自分が “ありのまま” ではない(エゴに翻弄されている)ことを認める
ちなみに私の場合には、このステップが最初に訪れた。 善良な市民と思っていた自分こそが、世界を平和から遠ざけている人々の一人だったことに、ある日突然気づいた。 仏教の教えでは、“悪いと知って犯す罪” と “悪いと知らずに犯す罪” を比べた場合に、後者をより重いとする考え方があり、まさにこれが自分を指していることに腹落ちした出来事だった。
この考え方の存在自体はもともと知ってはいたのだが、当時は全く理解できず、むしろ反対の立場さえとっていた。 反対の根拠として、企業や政治家の不正行為を例に挙げ、悪いと知りながら実行してそれを隠ぺいするなど、救いようのない悪だと思っていたからだ。 今だから理解できるのは、そういった意識された罪は、本人の心にもちゃんと影を残すところが却って健全だ。 本人に良識が残っていれば自己修復されるし、エスカレートするようであれば本人が身を滅ぼす。
一方で、悪いと知らずに犯した罪は、そもそも本人の意識に上っていないため、たとえ懺悔のような機会が与えられたとしても正される余地がまったくない。 このタイプの罪は、犯す人数が圧倒的に多いし、各人が日常の中で犯す頻度も圧倒的に多い。
私がこの自覚を得たのは2025年の8月で、当然ながらかなりの精神的打撃を受けた。 どのように生きていくかの価値観を再構築するのには2ヶ月ほどかかったように思う。
4. 科学リテラシーを高め、社会や環境の現状を把握する
私は、科学は、物事の断面を自分で分析して楽しみたい人がやればよいもの: 娯楽の一種に過ぎないと認識している。 科学リテラシーについて、私は山田さんはあまり議論したことがなく、心豊かな社会を作るうえでこれが必要なのかどうかについては、現時点では山田さんと違う意見を持っているように見える。
想像で話しても仕方ないので、この機会に聞いてみた。 ここで山田さんが “科学リテラシー” と言っているのは、断片的な情報から客観的に何がいえるのかを見極める能力のことだそうだ。 ということは、「科学」が指すのはなにも自然科学だけではなく、人文科学も含むことになる。 そう言われると私にも、学生時代に「このデータからその主張をすることはできない」と指導されたことを思い出した。 確かにこの技術は、現代社会では必要だ。
単純に言うと、世の中には、袋から取り出してみた玉が赤かったからといって、袋の中の玉すべてが赤いと断言するような主張がたくさんある。 ここまで単純化すれば、そんな主張はできない2ことは誰にでもわかるが、実際に自分が主張する場面になると気づくのはなかなか難しい。
この「科学リテラシー」は「論理的思考力」で、結局のところ重要なのは、自分のメッセージが客観的なものなのか主観的なものなのかを自覚したうえで発信することだろう。 この自覚は、メッセージの内容が客観的か主観的かに関わらず、それらを一段上から点検する姿勢によってもたらされる。 なので、たとえ主観的なメッセージしか発信しない人がいたとしても、それが自覚的であるならばその人は「科学リテラシー」を持っている。 抽象的に言うとわかりにくいが、要は単に「私はこれが好きです」でしかないのに「これが優れている」と言うなということだ。
論理的であるとは、損得に関係なく、手持ちの情報から導かれる結論を見つけることなので、場合によっては、その時点の自分にとって都合の悪い結論が導かれることがある。 そこでデータを捻じ曲げずにありのままを発表できるかどうかは、発信者の器にかかっている。 科学者ならばそれは当たり前のことなので、そういった意味で科学は信用できる。 ビジネス界については敢えて言わないでおこう。
科学リテラシーの重要性について、私自身が山田さんの主張に同意できたところで、一段上の話を重要な話を思い出したので述べておく。 たぶん山田さんも同意してくれると思うが、私は、科学リテラシー ──ここでは論理的思考力と言い換えたほうよさそうだが──の重要性は認める一方で、それは道具箱のなかの一つのように、必要なときに取り出して使うものだと思っている。 社会のすべてを論理に従って決めると、殺伐とした世の中になるだろう。 それを防ぐのが次のステップともいえる。
5. ハートが優位になる行動(助け合う、自分の身体を慈しむ、など)を意識的に行う
これは重要なステップだ。 私はここを、人間の心ならではの、物理法則に支配されない部分と認識している。
この世の物理現象はエネルギー保存則に従う。 “エゴモード” にある人間の心もエネルギー保存保存則に従い、「パイの奪い合い」の論理でものを考える。 パイ自体の大きさを増やすには、系の外からエネルギーを注入するしかない。 このモデルに支配されていると、他人に分け与えるとは、その分だけ自分の取り分が減ることを意味する。 パイを得たいならば、他者から奪うか、対価を払って購入するしかない。
しかし “ハートモード” の人間の心はそうではない。 他者に分け与えたにも関わらず自分にもエネルギーが湧き、結果としてエネルギーの総量が増える、といったことがふつうに起こる。 自然のいたるところに有難いものが無償で提供されており、対価を払わずとも受け取ることができる。 さらにいえば、価値は必ずしも外から得るものではなく、既に自分の中にあるものに気づいて取り出すこともできる。
余談だが、現代の子どもたちにとって、クリスマスは「価値」が外からやってくるイベントなのだろうが、商業によって歪められた価値観にさらされて育つ現代の子どもは、つくづく不幸せだと思う。
6. ありのままに近づく(適切な行動が自然にできるようになる)
「七十にして 心の欲する所に従いて矩を踰えず」とも言う。
すべての人がこの境地に達すれば、当然ながら世界は平和になり、環境問題など考えずともよくなる。 正直に言うと、私はこのテーマに感心を持ってから、環境問題について集団で議論するのが好きではなくなった。 健全な地球環境は、目的ではなく結果だからだ。
人類がこの境地に達するならば、他の惑星に脱出することなど考えるはずがない。 人類の寿命は、太陽の寿命とだいたい同じになるだろう。
おわりに
私自身、これまでに何度も、このテーマについて何かしらを書こうと思い続けてきたが、ずっと書けずに来た。 しかしこの度の山田さんの講演を聞くことで急に足がかりができ、初めていくらか書けたような気がする。 本記事を書く過程で、機会を改めて主題として書くべきトピックがいくつか見つかった。
山田さんとは、今後も議論と発信を続けていこうと話した。 うまくいけば、2027年の春ごろにまた講演しに来てくれるかもしれない。 私も自分の考えを整理し、少しずつ文章にするなどして準備しておきたい。
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